4年後、生きているだろうか
北中米ワールドカップが開催中である。残念ながら、日本代表の挑戦は終わってしまい、また4年後、頑張ろうという話になっている。
さて、これを書いている私自身は、4年後、生きているだろうか。過去、6大会を観戦してきたが、代表が敗退して、世間がひといきつく度に、4年後のことを考えてきた。
これまでの例では、進級、進学、入社と、キャリアパスに沿って、環境が変化していることを見通せた。あるいはそのおかげで、苦しい毎日に、少しばかりの光明が差しているかもしれないと、期待してきた。
そして今。いずれの期待も叶わず、環境が変わる度に新たな苦しみを覚えながら、ここから臨む4年後への期待は、とくにない。親が平均寿命で逝くと仮定すると、まだ、どちらも生きていそうである。親より長生きは、すべきなのだろうが、命あるかは、天命である。意思で左右はできない。やっぱり生きているかもしれないし、あっけなく逝くかもしれない。
日本代表に勝ったブラジル代表は、セレソンと呼ばれる。選抜、という意味らしい。限られた人しか選手になれないプロのサッカーで、さらに国の代表に選ばれるというのは、とんでもなく、すごいことだとみんなが知っている。
私も、私の人生を頑張ってきたとは思う。ただ、その価値は、私の内に閉じている。世間の尊敬を集めるものではない。そこが、彼らと私の違いである。
ベネディクト・アンダーソンは、国家とは国民の物語を共有する、想像の共同体だといった。とすれば、私の物語は、みんなの想像の外にある。
いま感じている4年後へのしらけ具合は、日本サッカーがこの20年――というより、前のアメリカワールドカップを逃して以降の30年というべきか――積み上げてきた国民の物語に直面したが故の、無力感かもしれない。

