読書録:石田勇治 (2015) 『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社
これまで、 ヴィルヘルム2世、 そしてビスマルクと、 ドイツの歴史上の人物についての評伝を読んできた。 そこで今回は、 いよいよ第三帝国、 ヒトラーの時代である。
私は小さいころからミリタリー・マニアであったため、この時代のドイツについては、ほかの時代に比べれば、いくらか知識があるほうだとは思う。 とはいえ、その知識というのも、 ティーガーやパンター、スツーカといった具合で、 ウェポンに大きく偏っている。
本書で述べられているような、 ナチ党の権力掌握の過程と、 その後の政策に詳しいわけではない。そんな私にとって、とても読みやすい入門書だった。
ホロコーストや第二次世界大戦を経験した後世の私たちは、「なぜヒトラーの独裁を許したのか」 と、 当時の人々を非難しがちである。
が、もし、 自分がこの時代のドイツで生きていたら、政権に反対できただろうか。本書で描かれる当時の国情を知るほどに、 カリスマ的な 「新時代の強いリーダー」 へ期待する気持ちが、 分かるような気がした。
自分だったら政権に反対できた、 とはいえない。 むしろ、 迎合するだろうと思う。なぜなら、 これまでの私もまた、 体制に迎合することで生きてきた、という自覚があるからだ。
私は、 脳性麻痺者であるが独歩可能であり、 それゆえに、 年少時から一般企業での就業と経済的自立を自他ともに強く期待して生きてきた。 それは、 生産性で人間の価値を決める現代資本主義の価値観への適応であり、 「名誉健常者」 を目指す努力だった。
その裏に、 そうでない人々――社会福祉施設への入所や作業所へ就職をする人々――への差別意識が無かったとはいえない。
ただ、自分自身がこの社会で生き残るためには、たとえ差別者といわれても、 「名誉健常者」 への努力を重ねるほかなかった。
その結果として、 就職して、 一人暮らしを続けている現在がある。
死ぬまでこれを続けなければならないという虚無感だけがあり、 幸せにはならなかった。
が、かといって、 差別を背景にキャリアを重ねてきたという罪からは逃れ得ない。
もし私がナチ党の優生政策の下で生きていたら、 自身が「遺伝性」 の障害でないことを強調し、 生き残りを図るだろう。
もっとも、なにを 「障害」 とみなすかは、 為政者によって恣意的に決定される。いくらおもねったところで、かならず 「名誉健常者」 になれるわけでもない。
もし、私が生きている間に、 私を「殺される側」に回すような政策が実行されようとしたとき、私は抵抗できるだろうか。 現政権がネオナチだとか、 ロシアの大統領みたいなことを言いたいのではない。ナチ党が支配したドイツの歴史は、 既に克服された悪だといえるほど、 私は人間を信頼していない、ということである。
